本日の日替わりブレンドvol.1

“あやうさを生きる”

 将来を悲観し自身の子どもに手を掛ける痛ましい事件の続報を見ながら、帰った後の過ごし方を考えている。「将来を悲観する」人間の心のありようを取り扱うのが日常茶飯事なわけだが、画面の向こうの見ず知らずの人に対しては何もできない。私は、自分の目の前に立つ人間に対してしか深く関われないと思っている。それでも、こうやってブログを書き始めたのは、まぁ心の底にある泉に溜まった沈殿物を吐き出したいからで、その沈殿物がなにかしらの形で誰かの元にボトルとして漂着するのも悪くないと思ったからだ。

 急ぐように東京から宮崎に移り住んで早1か月、私はぼんやりと病棟で「心を病んでいる」とされる患者と相対している。ただ、昨今の事件を見ていて思うのは、決して「心を病む」は「異常」と排斥すべき対象ではないこと、「明日は我が身の精神」で心の片隅に常に置いておいたほうがいい可能性であることだ。心は常に変化する。体も本来なら変わっているはずなのだが、DNAという設計図のおかげで傍からは変わらないように見えるだけだ。

 うつ病の既往があるシングルマザーなんてリスクファクターのごった煮のように見えるが、こうやってまぁ生きていられるのは、残された家族とはまあまあ仲がいいこと、育児の支援に協力的であること、近くに保育園やかかりつけがあること、理解のある職場であること、だ。調停で面会交流を求められたのに、最後に捨て台詞を吐いて去った元夫からは面会交流の打診もなく、ただ毎月微々たるものではあるが養育費が支払われている。これも私に安寧をもたらしてくれる。

 この仕事を続けてみて、「硬さ」があるものはあまりいい結末を迎えないことを痛感している。「硬さ」、まぁ体も硬ければ怪我の素だし、ここでいう「硬さ」は「心の硬さ」だ。柔軟性ともいう。敬愛する老子の言葉にも「固くこわばったものは死の仲間、柔弱なものは生の仲間」とあって、この世をたゆたえるものこそ善く生きられるのだと解釈している。老子の言葉はとにかく流転するのでその真意をかみ砕くのが難しいが、まぁゆるく解釈するくらいでいいのだろうと思っているけれど、有識者はそれを許さないだろうか。ちょっと、ビクビクである。それで「心の硬さ」というのはなんとなくこれをお読みになる方々は想像つくと思う。それである。ざっくり言ったら「頑固爺」。自分がガッチガチに持っているポリシーで万事にぶつかろうとしているイメージだ。もう何物も寄せ付けない岩みたいなものだ。こういった人が患者として家族から連れてこられるケースもまあまああるが、まぁ話は通らない。「自分は困ってないからいい!」とも言うし、自身の酒量について合理化をはじめたりするし、ここまで書くとすごくマニッシュなイメージに見えるが、これが女性であるケースもある。「もう自分は未来永劫これで生きてく!」と意思表示した人間には正直成す術はない。と言ってもそれでお帰りいただくわけにも行かないので、現場ではちゃんと説得を試みるのでそのあたりはご安心ください、と言いたい……すみません、出来ることはちゃんとやります。

 あったり前だが、「余裕」がなければ一歩引いて物事を見つめなおすことはできない。「余裕」「余白」「無」。最近はもうコスパ、タイパの時代になったが、「無(駄)」があるからこその概念だと思う。駄かどうかはその人の判断である。かくいう私もちょっと前まではかなりタイパ人間であったが、「無」を甘んじて受け入れるようになれたのはイヤイヤ期真っ最中の息子のおかげかもしれない。子どもにタイパは通用しない!スケジュールもガッチガチに組んだ方負けである。予定が潰れたら「それが運命だ」と受け入れるしかない。育児は受容の連続だと常々思う。最近、実存哲学の本が読み易くなったのは確実に息子のおかげである。息子バンザイ(白目)。

 見出しに書いた通り、かーなーり難しい話ではあるけれど、いかに「あやうさを生きる」かが生きやすさのポイントなのかもしれない。そもそもそんなこと考える余裕なんてないぞ!って方にはぜひ数分でもマインドフルネスの時間をとっていただきたい。数十秒でもいい。自身が自由である時間をほんのちょっとだけでも(脳内限定にはなるだろうけど)堪能していただくのはすごく大事である。本来、心の中は自由で途方もなくて、インモラルだ。

 最終的には皆独りだ。だからこその自由である。おあとがよろしいようで。

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